mommapapaの父の言の葉

日本語と暮らしと子育て雑記

天命

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 人生50年も生きてくると、それなりに見えてくるものがある。

その見えてくるものが、どうやら人とは少し違っているらしい。見る角度が、やや異なるようだ。

恥ずかしながら私は新聞を読まない。

いつから読まないといって、生まれた時からずっと読まない。

恥ずかしながら、と書いたのは、一応新聞を読むのは社会人のたしなみとか世間の常識という価値観を考慮したからであって、私自身は別に恥ずかしいとは思っていない。

新聞はエンターテイメント性の高い媒体なのだから、読みたい人は読めばいいのではないかというくらいの感覚である。

エンターテイメント性が高いというのは、要するに「情報」という生の素材に、デスクと呼ばれる個人あるいは集団の意見が付加されたものが報道であり、その一形態をなすものが新聞だ、という意味である。社説、といったものがそれを代表するのかもしれない。

私自身はそういう誰かのコメントは要らない。飾り気の無い事実だけ記載してあればいい。だから新聞は読まない。どの文章にも誰かの意見が付加されているからだ。

そして私の求めるような生の素材をそのまま扱うような媒体は存在しない。情報を文章で表した瞬間から、そこには意見が付加されてしまうからだ。

あるとすれば、例えば街に張り巡らされた防犯カメラの映像を延々と流し続けるといったことが想定されるが、そんなことは現実的ではないし、第一面白くもない。

だから情報の卸問屋として、報道が整備されたのだろう。情報のセレクトショップである。だからウンチクを語る店主たるデスクが存在する。

しかし私は、ただ黙って店の品揃を見たい方である。声を掛けられると逃げ出したくなる。情報でいえば、ただ事実だけを確認したい方だ。

だから私は新聞を読まず、読まないから世間の常識が入って来ない。

常識が入って来ないから 世間の人々と感覚が違ってしまったのかもしれない。常識というものをほとんど身に付けることなく大人になってしまったのだろう。

そうした経緯もあって、他の大人と物事に対する捉え方が少し異なるのかも知れない。

 

そんな私であるが、文章を書くのは好きである。

好きだが書くと少し苦痛を伴なう。

何故かと言って、言葉や表現に対してこだわりを持ちすぎるあまり、なかなか先に進めないことが多々あるからだ。

そのこだわりとは、恥ずかしながら、文章全体の内容以上に、文章そのものが美しいか美しくないかというこだわりである。世間には、美しくない文章が溢れている。だから闇雲に人の文章は読まない。書くばかりである。

そして、今度の恥ずかしながらという表現は、文字通りの意味である。

自分は美しい文章を書いているつもりだと宣言をしているかのような、その物言いへの恥じらいである。

もしかすると、それは自分自身の中でのみ通用するこだわりであって、他者からみると笑ってしまうようなレベルのこだわりであるかもしれない。私の書いた文章を読んでも美しさという点に違いを感じなければ、つまりそういうことだ。

そもそも文章の美しさとは何だ。私には説明することができない。

ただ自分の中で言葉への美しさを求めるあまり、書きながら何度も何度も書き直してしまう。

それは文章の内容を捉え直すという作業ではなく、どのような言葉や表現を使うかという、日本語へのこだわりである。

言葉の響きやリズムへのこだわりである。

だからなかなか前に進まない。

だから苦痛を伴う。

でも50年生きてきて、これから先も文章を書き続けるのだろうと思う。

それは私にとっての天命かどうか知らない。

ただ書くばかりである。